ちょうど10年前の2014年8月、大学生になりたての根暗な僕はとにかく外の世界を見てみたいという衝動に駆られて自宅のある関西某所から鉄道でひたすら西へ向かうことにしました。
思えばこの時まで一人旅の経験が無く、小学生の頃に家族で温泉旅館やキャンプに行ったことはあるものの、学校の敷いたシステムに従ったまま体だけはデカくなっていたという実感しかありませんでした。
というのも、将来どんな職業に就きたいか漠然としたイメージすら無く、ひたすら“偏差値”という尺度に自分を当てはめてきました。中学校入学直前に進学塾に入ってから週3~4日のペースで夕方からの時間を費やすことで“受験”を意識し、偏差値では学区内3番手の高校に進学できたことで思い上がっていたのですが、当時の僕は何を勘違いしていたのだろうか。
今回は、これまでの僕の生い立ちについて記憶を絞り出し、今振り返ってみての心境について語ってみようと思います。
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隣町で始まった高校生活はそれなりに上手くいっていたと思ったのも束の間、入部した音楽系の部活動で孤立していった1年生の秋頃から勉強にも身が入らなくなり、学校自体が億劫に感じるようになりました。
就職先を見つける上で理系が有利という言説(理高文低)や“文転”―文系志望・理系志望のいずれかに沿ってクラス分けを行うが、3年進級時に理系志望から文系志望のクラスへ移る―という特例措置もあり、2年生に進級するタイミングで理系志望のクラスに入りました。そこでは授業内容についていけなくなるばかりか、クラスや部活動でも孤立状態がエスカレートし、ついには隣のクラスメイトからも苛めなる仕打ちの標的までになってしまいます。
数日間欠席するだけだったため辛うじて進級できたのですが、理系科目では学年最下位となるなど学業成績は壊滅的な結果となり文転することとなりました。同時に部活動では各学年1人のパートに所属していたにも関わらず退部届提出・・・。リーダー的な立ち位置でなかったとはいえ、後輩をほったらかしにするなんて先輩としても人としても失格でした。
3年生のクラスでは孤立だけはしなかったものの、周囲の学力の高さに嫌気がさし某国立大学を断念、地元の中堅レベルとされる私立大学に進学します。達成感や心が満たされているような感覚は皆無で、人生の大部分を棒に振ったという実感だけが残っていました。ある種の見限るような態度が両親の言動の中にあったことも鮮明に記憶しており、それが僕を外の世界へと惹きつけるきっかけになったのは事実です。
在学中に遠く離れた関東の国立大学への編入学を思い立つも、学問や研究自体に関心が持てず失敗・・・。結果的に就職浪人した上で関東某所の会社に就職・・・したのも束の間、1年経たず退職し関西の空き家状態となった親戚の家で一人暮らしさせてもらいながら、医療系資格の養成校へ通うことに。2年かけて国家資格を取得し、またまた関東某所(としておく)の医療機関に勤めるも長続きせず、短期アルバイトや無職期間を経て再び関西の家で居候させてもらうこととなり、今に至ります。
放浪者、市場価値無し、親不孝、社会不適合・・・今の僕を一言で表現するとこんな感じでしょうか。とっくの昔に両親から勘当されていてもおかしくないと思います。
“一般的”とは?
このような不器用で世渡り下手な自分ですが、振り返ってみて言えることは“人と同じように生きられない”人間なんだと。これまで、親や先生や誰かが敷いたレールの上をクソ真面目に歩き続け、同調圧力に流された故に手段を目的と勘違いしてしまい、結果“こんなはずじゃなかった”の繰り返しになっていると感じています。
幼少期から真面目で素直で従順と言われてきた僕は、はっきりとした自身の意思(志)を持たず、しかも争いごとを避ける超平和主義者でもあったために周囲の行動や意見に流されてきたように思います。実際に、過去に親と揉めることはあっても真っ向からぶつかり合って大喧嘩になることは無かったようで、こちらが妥協することが殆どだったかなと。つまり、自分の“軸”というものを持ち合わせていなかったんだなと今更ながら感じています。
因みに、僕は幼い頃から変態レベルで地図を見たり国旗や国名を覚えるのが好きだったらしく、また天文台によく連れて行ってもらった経験から天体観測も好きで、小学校時代に天文学者を所謂“将来の夢”にしていた記憶があります。ピアノや合唱の習い事をしていましたが、当時はミュージシャンには興味が無く只々男の子が少なくて恥ずかしかった記憶が・・・。
このように物事に興味が全くなかった訳ではないですが、興味関心を仕事にするという発想は皆無だったために世に確立している職種の中から選び取るということが“当たり前”と考えていました。
この“当たり前”とか“一般的”という言葉を過信してしまったために、レールに乗っかることに執着した挙句バランスを崩してしまったのが現在の姿なのではと思うのです。

旅先での出会いが僕を変えてくれた
所謂固定概念というものにがんじがらめになり疲れ果てていた僕にとって希望の光となったのは、旅先のゲストハウスでスタッフさんやオーナーさん、常連のお客さんと知り合ったことでした。
当時25歳だった僕は漠然と音楽で収入を得たいという思いが密かにあったのですが、とりわけ旅先で専業の画家として収入を得ていらっしゃる方は僕の生き方の模範となったのです。創作活動を趣味でも副業としてでもなく本業として確立させるための心構えだけでなく、正社員・サラリーマンとして働き続けることが“普通”のことでは無い、好きなことを続ける上での資金をアルバイトの掛け持ちで賄うことが何ら周囲から引け目を感じることでも無いんだと・・・。
それまでずっと“一般的”な生き方こそ正義だと刷り込まれていた僕にとって、この価値観を受け入れる勇気が無く、また医療系の養成校に通っている最中に進路変更する訳にもいかなかったために本業医療従事者のキャリアに留まっています。卒業後に勤めた関東の医療機関で副業として音楽や絵画を創作されている先輩に出会ったことで、音楽活動の中でも作曲中心(制作>歌う、演奏する)の仕事を副業として確立することを目標にしています。※あの先輩は本当に多才だった。
そもそもですが、幼少期に親の意思で恥ずかしながら続け、その後は黒歴史でしか無かった音楽に対して、何故仕事にしたいとまで考えるようになったのでしょうか。それには旅をすることが大きな意味を持っていました。
僕は一人旅で移動している最中は必ずと言って良いほどウォークマンを耳に当てており、旅に音楽は欠かせないものだと考えています。当時好きだったミュージシャンが主催する芸術祭に行くことがあり、イベントの一環として行われたミニコンサートで初めて生演奏を聴いたことがきっかけで音楽を仕事にしたいという漠然とした意思が芽生えました。22歳で卒論に追われているタイミングでそんなことを・・・って思ったのと、学校に入り直しても運の要素に左右されることや経済状況を知っていたため一般企業に就職して貯蓄に専念することにしました。
初めて親元を離れて就職したのですが、配属先が夜勤のある365日シフト制の職場であったために生活リズムが崩れ常に仕事のことで頭が一杯になり、とても音楽活動に打ち込む余裕など無く・・・。仕事として続けるには不安定すぎる音楽を続けたいと考える一方で、国家資格を取得して“安定”にすがり付こうとする自分もいて・・・、本当は何がしたいんだ!と今も自問自答しています。
とは言うものの、両親に援助してもらいながら取得した国家資格はモノにしたい(それがせめてもの親孝行・・・)という意思から、現在も就職(転職?再就職?)活動中ですが、業務内容への魅力というよりは生かさないと勿体ないという考えによるところが依然として強いです。健全な志望動機では無いのは承知ですが、マンツーマンで関わる対人援助の仕事自体は好きなのでメインの仕事として5年を目標に経験を積みたいと考えています(作曲活動とこのブログは意地でも並行して続けます)。
ここまで僕の価値観の変化や趣味でも本業でもない“したいこと”について触れてきましたが、やっぱり人に影響を与えるのは人なんだと改めて実感します。とりわけ旅先のゲストハウスでの出会いによって多様な価値観に触れたことは、今後の人生における大きなヒントになっています。仕事が落ち着いたらまたゲストハウスを巡るつもりです。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

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